東京都西部(西多摩郡)にある瑞穂町では、狭山茶が栽培されている。この地域の茶は古くは、鎌倉時代にもたらされた川越の寺院から広く普及されてきたものと言われている。しかし、当時はまだ抹茶のように粉にしたお茶としての利用しかなく、庶民の利用はまだ少なく、お寺や武家の一部で利用されていたと言われている。その後、京都宇治の永谷宗円と江戸の山本嘉兵衛が煎茶を江戸に紹介したことから、大きく狭山茶が前進することになる。
東京の狭山茶 産地の草創
現在一般に広く飲まれている煎茶(茶葉を蒸し、焙炉で揉捻を加えながら乾燥する宇治煎茶)は徳川吉宗の元文3年(1738年)山城国の永谷宗円が当時江戸第1の茶問屋山本山の四代目嘉兵衛嘉道にその販路拡張を頼んだことに始まる。
「品質佳良、甘きこと甘露の如し」と江戸八百八町に流行し、山本山の名前を天下に不動のものとした。
そして宇治煎茶を作る狭山茶産地の草創はその山本山嘉兵衛徳潤の大きな貢献によっている。
東京都西多摩郡瑞穂町、旧宮寺郷坊村の村野盛政(1764~1819)その子矩邦(1794~1854)の狭山茶についての事跡は「村野翁墓銘」に簡明に記されている。またその詳細については、同家に伝わる『元狭山村坊村村野勇吉氏尊父の記せし狭山茶の由来』がある。
「一、祖先村野盛政が狭山茶の回復の殊に着眼したるは天明年間(1781~1788)なり・・而して該業に着手したるは寛政年間(1789~1800)にして、尚之を吉川忠八に譲りしは享和(1801~1803)年間なり。以降吉川忠八等とともに力を培養製法にいたし、漸く一派の製法を案出し、これを遠近の郷里に伝え、以て日常の飲用に充てしむ。而して自家の製品は隣国に輸し、以て販売するを常とせしものなり。
一、文化13年(1816)東都茶師山本嘉兵衛氏へ、初めて茶を輸送す。之れ販路拡張の端緒なり。」等とある。
瑞穂町の北東部に隣接した埼玉県入間市宮寺の出雲祝神社の境内には天保3年(1832)銘の「重闢茶場碑」があり、碑文は漢文であるが「文政中(1818~1829)におよんで、郷の著姓村野氏盛政、吉川氏温恭(1767~1846)江戸山本氏徳潤とあい議り、重ねて場を狭山の麓に闢き、以て数百年の廃を興さんと欲す。鄰曲之が為、従って種える者数十戸、力を培殖に用い、逐次蕃滋し歳に若干斤を収む。佳称日に著れ、製益精絶、而して狭山の産復再び今に彰わる」となっている。建立者の中には坊村村野弥七規邦、西久保村吉川忠八達徳と両子息の名が見られる。
瑞穂町箱根ヶ崎の狭山丘陵西端の狭山池を臨む丘上に狭山神社がある。ここには明治11年10月(1878年)の銘で「狭山茶場之碑」が建てられている。
箱根ヶ崎名主村山為一浪の発願によるもので、その題額は勝海舟安房が書き碑文は漢文であるが「今之いわゆる狭山池之傍、実に古茶園之跡なり、諸を荒蕪に附す可き哉と。乃相共に資を出し茶園を開き、之れを盛大にして以て古に復せんと欲す。・・我が茶既に欧米各国賞誉する所なり。是に於てか益々其の巧を巧にし、愈々其の精を精くし、終に海外諸国をして、日本の茶は固より可なるも、狭山出す所、最佳と言わしむるに至らば、即ち豈我が国之一栄誉れに非ずや」とあり、既に当時この地は宇治に並ぶ製茶技術を持つ著名な産地として江戸へ出荷し、輸出も行っていた。
さらに明治13年、青梅市今井の指田家の屋敷地に建てられた「狭山製茶先哲記念碑」がある。
指田半右衛門貞徳(1851年没)を顕彰したもので、発起人は子息の平右衛門とその子伝吉で「記念標設立願」には
「文化年間、入間郡小ヶ谷戸村吉川作右衛門なる者有り、山城国宇治里に遊歴して其の製法の伝習を受け、帰国の後、専ら該製法を拡張せんとするの際、亡父指田半右衛門義、同人に随従し、其の法を学ぶと共に、1家製茶の道に従事す。且つて当時両三名の有志の者あり、亡父とともに勉励す。爾後漸々此の業を励むも者、月に増し日に盛んなり。随て製法精錬に至り、方今内国観業の1に所し、且つ久年煙埋たる場名、回復の機に立ち至り候は、実に吉川作右衛門の中興其業及び亡父半右衛門、其の他自余の人々の聖心に井で候儀と存じ候」とあり、同志146名が連署している。書は出雲大社宮司大教正従五位千家尊福(後の第十七代東京府知事、司法大臣)である。
指田半右衛門の功績は同家にある『霜の花遺記』にも残されているが、痴愚になりすまして宇治の製茶場に潜り込み、技術を盗んだ苦労話や、「帰来直チニ入間郡村野盛政、吉川作右衛門及ビ江戸山本徳潤ト訂議シ、普ク茶樹ヲ播種シ、益製法ヲ改良シテ大ニ其業中興ノ望ニ勝ヘタリ」などど記されている。
そして指田半右衛門は明治16年8月に兵庫県神戸港で行われた第二回日本製茶共進会で「中古狭山の茶業廃絶に属するを嗟嘆し、有志と議り百方周旋克く再興の績を奏す、因りて其功労を追賞す」とし、農商務卿西郷従道によって追賞されている。なお、この時吉川忠八も「享和年間同志村野盛政ト共ニ力ヲ尽クシ」追賞された。
次ぎに指田家が茶の仕切り書をみると、文政四年八月四日(1821)芝宇田川町諸国茶問屋金子藤兵衛へ喜撰、山吹、飛出し、切く津49kgを銀953gで売っている。更に翌文政五年には、江戸日本橋諸国茶問屋山本嘉兵衛(山本山)へ雪の梅28kg、霜の花9kg、喜撰9kg、山吹9kgつもり、上飛び出し、上切屑、飛出し38kg 合計94kgを銀1,961kgで売っている。
以後天保10年(1839年)まで山本嘉兵衛を主に、大橋多郎次郎、堺屋友次郎へ、多い年は825kgを売った仕切り書が残されている。
この中の「雪の梅」「霜の花」は庶民が愛飲した「喜撰」や「山吹」よりもかなり高価な銘柄であった。
嘉永六年六月(1853年)ペリー艦隊が江戸湾へきた。当時の庶民の動揺を伝える狂歌に
太平のねむりをさます正喜撰 たった四杯で夜もねられず
とあるが、これは市民が飲んでいたお茶の銘柄「喜撰」を蒸気船、「たった四杯」を黒船四艘にかけたものである。この地域は黒船が来る三〇年以上も前にすでに高級宇治煎茶を江戸へ出荷していたのである。
旧東京府(現 区内)は明治二年政府と政府が始めた桑・茶奨励で武家宅地跡などに茶を植えたので、まとまった茶畑が多い。豊多摩郡野方町の製茶は明治の初年、五辻安伸が江古田で4.8haの茶を植えたのが始めで、その8、9年後、北豊島郡長崎村では岩崎熊次郎が山城から種子を購入し栽培者に分与したのが始めとしている。
北多摩での茶の栽培は寛政年間(1789~1800)といわれるが、安政6年(1859)の韮山代官江川太郎左衛門の奨励によって活発化したとされる。明治3年の北・西多摩の製茶量は瑞穂地区833kg、村山地区731kg、砂川地区2,761kg、羽村地区1,500kg、福生地区1,125kgである。
砂川村の梅山小三郎は、「安政元年(1854)ノ頃ヨリ焙炉ヲ増築シ・・明治元年(1868)頃ヨリ同人ニ就キ其製造法ノ伝習ヲ受ケルモノ六十有余人、時恰モ明治十三年製業会社(砂川村の須崎史一郎上門らが創立した製茶工場)の設アリ、同人ハ之カ主幹トナリ数多ノ職工ヲ傭ヒ器械ニ改良ヲ加ヘ・・此処ニ於テ初メテ狭山製ノ一派ヲ博セシヲ以テ」明治23年4月第3回内国勧業博覧会の製茶功労者として砂川村長から上申されている。
また東村山市村の市川幸吉は明治の初年、埼玉県三ヶ島村と伊勢国から種子を購入して植え、製茶についても狭山法と宇治法を折衷した新法を創出している。
明治18年には、北豊島郡上練馬村の増田藤助ほか5名の総代が府に北豊島郡茶業組合の設立を願い出て認可されている。
明治11年には北多摩郡茶業組合が設立され「茶業講話会」が各村で毎年開かれた。
立川村では井上善次郎尊重が明治36年7月多摩部長に出した意見書では「当地ハ製茶養蚕業ヲ以テ一家ノ歳入中最重要トナシ其ノ良否ハ一家ノ盛衰ニ間スルモノニシテ従イテ一村ノ興廃ニ及ボスモノ有リ之」としている。また小平では本格的になり始めたのは明治20年前後としている。
北・西多摩の茶葉畑の軽い火山灰土が冬の北風で飛ぶのを防ぐため、東西に18~24m於きに植えられていた「うつぎ」を植え替えた畦畔茶が五割以上を占めていた。従って各農家が茶樹を持ち、培炉を築いて手もみ製茶を行った。これを茶商がツボ買いと言って農家を回り品質に応じた値段で買取り農家の副業として定着していた。
東京農業史 仲宇佐達也